国道16号線から北へ曲がると、中原街道まで続く短いながら重要な白根通り。
私が小さい頃は、都岡の御殿橋(中原街道)は木造の橋で、道幅も狭く、ダンプやバスがすれ違うのもやっとだった。(古代は古東海道・家康公の頃は実質上の東海道)
今では4車線の大きな県道となりましたが、どうも国道に格上げしたいらしい(実質横浜市が負担をしているため)。
そのためにクリアする条件として、抜け道となる『白根通り』を幅員16mの道路に拡幅する作業があった。
白根通りの至る所が、広くなりだしましたが、三菱系・東急系・相鉄系が開発したマンモス住宅街の人口比に対して狭すぎた為、皆も待ち望んでいたと思われます。
しかし、その沿道の方々の土地を購入して、セットバックしてもらったり、代替え地に移転してもらったりと、横浜市のやり手の方々が何度も足を運ばれていました。
その際、その土地の方と横浜市のあらゆる部署との繫ぎ役となり、後退する方の立場で、少しでも良い条件を獲得するため、尽力しました。縦割りになりやすい各行政を、時には物理的に引っ張ってでも、横繋がりを付けて連携してもらいました。
これにより、安すぎる立ち退き料を回避し、一緒に建物も建ててもらいました。
横浜市としても、白根通りを少しでも早く拡幅するという目標を叶える意味では良かったかと考えます。お互い、良い戦友です。
白根通りでの、その活動のはじまりが、入口にあるこの建物の土地をセットバックして、建てさせていただいた第一号。
その後は、だんだんと手慣れてきて、白根通りだけでも15件は、このようなパターン・代替え地を一緒に探して移転してもらったりと。
このお陰で、横浜市の他の道路、新宿区等と折衝をして、25件以上手がけさせていただきました。
そういう意味で、白根通りは、折衝・調整という作業を学んだ道路です。
※ちなみに、こちらの方角の坂が鶴ヶ峰坂。
信じられないかもしれませんが、明治時代は、山梨・長野、埼玉県西部地区の【絹】を八王子を中継基地として、この道(シルクロード)を通って、横浜港で積み、海外へと輸出されました。(川井宿・下宿・都岡近辺には、かつて旅籠が残っていました)
日本が近代化の過程で必要だった外貨を、稼ぐ手段のメインは【絹】でした。
ここがそのメイン通りです。
旅の途中で、行き倒れた方々も多かったそうです。
昔の方々は偉いですね。