当社の建築事業から派生するものとして、【世のため】を念頭に、現実化構想を練っていますが、本日はその一環として、神奈川県で唯一の『村』である清川村の現地調査に行ってきました。
明治~昭和にかけては、炭作り・養蚕が盛ん。
足利幕府時代は、長者屋敷伝説が有名で、鎌倉幕府を倒した新田義貞の息子(義興)が、足利治世になってから南朝方として鎌倉を落としたり、戦いを続けたが、謀殺され、残った家来が清川村に落ちのび、牛を飼い、砂金などで利益を出したが、足利政権の敵として村民に討たれたという伝説。
平安時代の頃は、治承年間(1177~1181)に毛利太郎景行(すぐ隣の厚木市毛利の庄出自・戦国大名毛利家の出身地)の名前が歴史に現れる。
それ以前は、渡来人(秦の始皇帝から命を受けた徐福・高句麗王末裔)が入植した痕跡、それ以前では、アイヌ系由来の地名がこの周辺にはたくさん残る。
煤ケ谷(すすがや)地区と、宮ケ瀬地区との文化圏が一つに統合されている。
南部煤ケ谷地区は、小鮎川が、丹沢山地をえぐり取ったような地形で、平地が少なく、山は急峻。
支流が非常に多く、水に恵まれた土地。
少ない台地では、綺麗な茶畑が。
『清川茶』として売り出し、道の駅で購入できます。
村落の入り口高台に、先述の毛利太郎景行が、京都石清水八幡宮から分祀したとされる『八幡神社』が、辺りを護るように鎮座。
立派な石で作られた、睨みのきいた狛犬ちゃん。
その裏手には、釣り鐘が。(昭和後半に再興)
釣り鐘はお寺にあるもの という固定概念があるでしょうが、それは明治新政府による神仏分離策が功を奏しただけのことであって、受容能力が非常に高い日本では、それ以前は、神社とお寺の明確な区分けが案外と少ない。(仏教に見せかけた他の宗教色が入り込んでいるところも多々見受けられます・密教自体が秘密教ですし 真実を知っている方は恐らく数えるほどだと思います)
神仏を分けた意味合いもわかりますが、檀家・氏子数の少ない地域でのお坊さん、神主さんの生活に関しては、死活問題で、今後ますます彼らの跡継ぎが少なくなり、常駐する神主・住職が居ない神社仏閣が増えて、整備もままならず、朽ちていくものが多いことだろう。
そこに眠る 先祖代々が築いてきた歴史も葬られてしまいそうで、危機を感じます。
その神社の脇の幹線道路から。
村営の別所の湯の入り口。
行ったことがありますが、居心地のよい温泉です(厳密には温泉ではないのが残念)
そして、かつてよく走っていたので、ここが狭くて、急勾配だったのを覚えています。
さらに、セブンイレブンが無くなって久しい。この下流飯山観音前のセブンイレブンもなくなってしまった。最近、村役場のすぐそばにクリエイト(化粧品・薬・洗剤類以外にも、日用品・食材・菓子・酒類も販売している)が出来たので、数年間のブランクはあったものの地元の方を思うと、良かったですね。
それはそうと、コンビニエンスストアの功罪で、それ以前に点在していた地域密着型店舗は、相当数 駆逐されていました。
便利と引き換えに、失くしていくものの代償が大きいのを感じました。
近頃、大型ショッピングモールが飽きもせずに、まだまだ増えていますが、一部は勝ち残るでしょうが、その他多くは消えていくことでしょう。
その際、その為に、子供が跡を継がずに閉店してしまった小売店のシャッターは、もう開かない。皆さん、大丈夫ですか?
ニュータウンと呼ばれ、お店が無く坂道だらけの街に住む方々も、歳を重ねると歩くのキツイらしいですよ。日用品宅配サービスも、運送業の人手が少ないなか、ますます困りますね。
『便利さ』を追究していると、必ずしっぺ返しが来ると思います。
かつては、『非便利』でも、生活できていました。コンビニも無かった。
さらに昔は、村には常設店が無かった。
だから、市場があった。
バス停華厳橋付近の小鮎川の流れ。
溢れる新緑に囲まれて、綺麗なせせらぎ。
川の西側台地は、このような牛舎があちこちに。
ただ、今は『牛さん、居るのかな?』的な牛舎も多かった。
その奥には、銀座コージーコーナーの大きな清川工場が人目を避けるように、建っていた。水がいいからね。
日本経済新聞(2015年10月10日)に大きく出ていた
【清川村、宅地最大4割引き】の記事。
子育て世代を誘致して将来の少子高齢化に歯止めをかけるべく 村営の分譲地の看板。
残念にも倒れたままに。
インターネット上では、1戸も売れず、失敗だった。 その後の処分をどうするのか?と。
さて、真実は。
何か、格好いい建物が建ってるじゃん。
さらに、もう1棟。
『なんだ、まるでダメだった訳ではなかった。良かった』
2年半で、6区画中2区画の売れ行きは、不動産的に考えるととても成功とは言い切れませんが、もう少し待てば、或いは少し値段を下げれば(すでに購入された方にもキャッシュバックして)、購入者が居ると思います。
清川村としては、若者世代が増加するということは絶対的に得ですから。
一方で流出人口が多いデータもリサーチしましたが、逆にその空き家をリフォーム費用を負担してあげて、流入を促進する。清川村は、財政的にも健全だし。お金があるうちに。
さらに、この地ならではの産業に力を入れて、雇用先確保。
しかし、そう簡単にはいかないのも事実でしょう。
様々な利権も絡んでいるでしょうし。
でも、頑張ってほしい。
うーむ。
9,759,525円
ちょっと、高いよね。お値段。
バス停は目の前ながら、この数字は。
660万円程度ではないかしら。
せめて、800万円は切った方が、事業が失敗とは言われないと思います。
擁壁・整地とここに掛けたお金は、それなりに掛かっているとは思いますが、そのような積算方式と、買いたいという購買意欲とは、別物と考えます。
4月1日にリニューアルされたばかりの【道の駅清川・東京から一番近い村】です。
以前に比べて、ドライブ・ツーリング・山歩き・観光と様々な目的を持った方々で、賑わっていました。
写真を撮る前に一枚食べてしまった、清川ブランド豚さんの 恵水ポーク丼(バラ肉)を食べて、腹ごしらえ。
この肉、美味しいです。
フライパンで焼いた後、網の上で焼いていましたが、ガスコンロ焼きだったためか、少しむせましたが・・・。
炭も地産地のもので、焼けばもっと清川の味わいがでるのにと、勝手ながら思いました。
購入した野菜類も美味しかった。卵はすぐそばの伊勢原産。もっと高いものは愛川町産。
帰りは、厚木市の㈱波多野商店さん本店へ。
目指すは、厚木名物【とん漬け】を持ち帰り。
今でも厚木市は、神奈川県中央部に位置する中核都市ですが、
かつては、大山街道の宿場町、放射線状に張り巡らされた道路の中心部。
さらには、水運を使った運送により、海のもの・山のもの・農産物・実用品の集積する一大ターミナル的拠点で、存在感はもっと高かったようです。
海面が現在よりも高い時期は、相模湾から厚木まで海水が入り込み、海老名市と一緒に入り江をなしていました。信じられないでしょうが。そういう内湾は、波・風に影響されにくい良港であり、海運が、陸運以上に活躍していたことでしょう。
本題だった事業調査の結果はあらかた出ました。
今後、清川村さんにお世話になることもあるかと思います。
その節は、どうぞ宜しくお願い致します。