旭区の西隣、横浜市瀬谷区阿久和東1丁目17に現存する、明治20年に建築された旧大岡家長屋門は、当時は農家が百姓と言われた時代。
それでいて、養蚕業で外貨を稼ぎまくって、西欧に追いつけ追い越せで、日清・日露戦争を戦いぬくために、日本中、皆して重税を喜んで供出していたそうです。
それにしても、元相模国の土地で鎌倉郡の瀬谷地区は、すぐ隣の元武蔵国、都筑の一部、帷子の流域、現旭区、保土ケ谷区は、痩せた土地という分析結果が残っています。我が爺さん、叔父さんが、陸稲(おかぼ・畑で育つ稲)品評会で、賞状を数枚貰っています。(逆に水田が少なかった証し)
今では、旭区の方がターミナル駅の横浜駅に近いという利点もあってか、少々発展しておりますが、田畑の土、作物を見ると、一目瞭然で、豊饒な土地です。
それを裏付けるように、地主の大きさ、土地面積と、旭区の地主とは比較にならないほど広大で、現存する昔の建物も、裕福さを雄弁さを物語っております。
近いうちに、瀬谷区での仕事も賜っていきたいものです。当社からも近いですし。
境川流域(かつては相模川)で、『エジプトはナイルの賜物』のごとく、山梨県・現東京都の町田市・高尾山流域の肥沃な土を、洪水のたびに運んでもらい、かなり昔から境川の水かさが多かった頃には、東の瀬谷区と、西の大和市(旧高座郡)の境を貫く【境川】によって、海運が盛んに行われていたため、その時に得た財も残り、その流域は今でも立派な建物・田園風景が残っています。
金が集まるところは、争奪に巻き込まれる運命のためか、深谷城(大和市)をはじめ、多くの古城が静かに眠っています。
相模国はもともと、大国武蔵国の分国ですが、武蔵国南部地域よりも肥沃な土地が広がっています。そして、今でも旭区の偉大なる田舎の方々の話しぶりと、相模国の話しぶりと、似ている事に気が付きます。今の横浜市民は、色々なものを受け容れる力を持っている一方で、一番、大人しい性質を兼ね合わせていることも指摘されています。
武蔵国北方の埼玉土着人と触れ合っても、やはり相模国の土着人、旭区の古い土着人と、馬で奔りまわって、我が土地は自分で開墾し、守る為には戦うという、ごく自然な野生の血を感ぜずにはおられません。
※我々のご先祖様の為に書いておきます。大国の武蔵国が北と南に分かれて戦った際に、我々南側の方が圧倒的に強かったそうです。しかし、押された北側は、当時の朝廷に媚びいって、結果、南が負けました。同時に中央の力が、武蔵王国の地をたやすく占領したようです。
内輪揉めは、いつの世も良くないですね。
頼朝公が出てくるまでは、関東を中心とした独自王朝は、ずっと東蝦夷(あずまえみし)として、馬鹿にされていました。今では立場がしっかりと逆転しましたが、元々の文化・戦力で、平将門公がその前の段階で、東国社会を築いていたら、兵力に勝る東国が、軍の天才源義経公を待たずして、天下統一していたかも知れませんね。
幕末には、旗本八万機(実際は5,000超)は、徳川家の近衛的役割をほとんど演じられていませんが。泰平の世は、皆が願うところ。しかし、ローマ帝国も、唐帝国も、京都朝廷も、在野の集団によって、幕を閉じている。
私が心配するのは、【平和ぼけ】。
平和は勝手に続くものでは無いということ。常に新たな血を入れつつ、力も保持しつつ、いざ時に戦える用意をしておかなければならない。戦争好きでは無く、孫氏曰く、【戦わないことが一番の方策】と考えます。そのためには、相手に戦う意志を持たせない力を固持することも必要と、長年の歴史が教えてくれている点です。
【平和】は、我が手で守らなければ、たちまちにして、その【平和】は奪われるものと心して置かないといけない。
如何に正義であろうと、負ければ賊軍。犬の遠吠え。と、なる可能性は高いですよ!
残念ながら、勝ったものが正義になるのが、世の事実という事実です。
負けた振りをして、臥薪嘗胆で力を蓄えて、270年後にひっくり返した、薩摩(島津家)・長州(毛利家)という手法もあることも付け加えておきます。