これが、我らが【旭区役所】です

1971年(昭和46年)に竣工・完成した旭区役所本館。

旭区は、歴史文献上解りやすい点では、平安時代末期~鎌倉時代初期に、畠山重忠公の従兄弟、榛谷四郎重朝公(はんがや しげとも・町田の別当小山田有重の子・川崎を中心とした稲毛重成が兄弟)が、桓武平氏 秩父族(畠山族)の鎌倉の喉元まで南下政策を確実にした地域であり、同時に、源頼朝公には、武士の鏡である畠山重忠、弓の名手として頼朝から寵愛され、何度も【吾妻鑑】に登場する武士が保土ケ谷区~現旭区を治めていました。
北條義時に、畠山重忠と同時間に葬られた榛谷重朝。同じく旭区最南端(現善部町)に別荘を有していた和田義盛、その他の頼朝公に寵愛された力のある部族は、悉く葬られました。
(約130年後に、源氏の末裔、新田義貞公により、徹底的に鎌倉攻めで滅ぼされた北條高時〈義時の子孫〉は、まだその頃の新田家は、鎌倉からみたら遠方で、力的にも北條に及ばなかったので滅ぼされずにすんだ)

時は流れて、1969年に保土ケ谷区から分区して、【旭区】が生まれました。
地元民の投票によって決まったことになっていますが、【旭区】は、順位が下位でしたが、あ行から始まる、或いは行政の想いからか、【旭】には何の関係も無いのに【旭区】になってしまったある意味、地元民、歴史を無視した採決ですが、慣れてみると、悪くはないものです。歴史的断絶は感じますが・・・。

来年(2019年)、誕生50年を迎える旭区ですが、
【サンサンと あさひ輝く 明るい未来】
との横断幕が。

私の名前は、小川名輝明。

【輝く】と、【明るい】と、二文字入っており、嬉しいような、真似されたような、変な気分です。
 
 東日本大震災の際に、そこへ行き、被害状況をすべて調査し、報告書を上げました。(建設系では私独りだけだった)
  
その時の報告事案、問題になる前に、直しておいて下さい。お願いですから。区民のためです。