私の育った、都岡本店(長男が先々、この土地を守ることになっている)は、川井八幡神社(かつては八幡宮・別の名を矢場神社)の氏子。
9月8日に行われた例大祭には、やはり長男に、行ってもらいました。
我々にとっては、とても大事な地元の神社。
私が、ここの権禰宜に、生きているうちに、『本殿か奥の院を建てる』と言ってしまったために、その言葉を守らなければならない神社。
また、旭区は案外と広いのですが、日本でも有数の数を誇る八幡神社は、何故かここにしか存在しません。
本殿前に、お御輿が奉納され、皆して街中、練り歩いたそうです。
長男は、奉賛会の中でも、一番の若造のため、皆様に可愛がっていただき、本人も嬉しかったらしく、今後も仕事が許せば参加してくれるそうです。
長男と、小川名建設株式会社と、それぞれにお気持ちを。
ここの神社は、歴史が古く、平安時代、まだ身分が低かった武士のヒーロー、八幡太郎源義家公(弟の新羅三郎義光公は、甲斐源氏・常陸源氏・信濃源氏の先祖)が、鎌倉を出立して、ここで弓矢の鍛錬をして勝利を誓願し、次に西早稲田の穴八幡宮の地、そうしながら、奥州へ向かったことになっています。
(個人的に、奥州征伐という言葉は好きでない)
私が推測するに、京都で弓の名手として、名高かった義家公の軍が、弓矢の練習を、相模・南武蔵の武士団に見せつけて、味方するなら早い方が良いとの心理で、仲間を増やす大事な見せ場だったのだと考えます。
我が都岡本店辺りは、大矢場。小川名家が集中する下川井には小矢場。とても短い矢場通りもそこにあります。その南、矢指町は、義家公がここ川井宿町から矢を放って、そこの地に矢が指したために、矢指となったのは、あまりにも有名です。かなり距離があります。
その後、下川井に三嶋神社が出来たので、小川名の多くはそちらの氏子ですが、もともとは川井八幡神社でまとまっていたものと考えます。
その1週間後には、今宿西町の本社前を雨の中、お御輿が掛け声良く、過ぎていきました。
次の日の今宿神明社の例大祭は、今宿東町・今宿西町・今宿南町の多くの自治会が、今宿地区連合として結束が強いため、とても賑わいます。
我が社の前は、その参道ともいえる通りに面しているので、家に居ても、はしゃぐ声を聞いているだけでも、愉しい気分になれます。