昔の希望ヶ丘高校の写真です。
今日は【K】の大先輩に、出会い(既に知り合っていながら気が付かなかった)、以前に【J】の大々先輩から頂戴した写真を、ふと掲載してみようと・・・。右の建物、旧体育館でしょ。県から解体の話があった際は、大いに反対していました。
こちらは、西区藤棚町2-197にある、一般財団法人 桜陰会(神中・神高・希高)のOB会組織。
かつて、ここに神奈川県で初の中学校、【神奈川県尋常中学校】が設立され、数回、校名の変更があり、大正12年に【県立横浜第一中学校】と改称。
昭和20年5月の横浜大空襲で焼失し、戸部、六浦へと移転。
昭和26年に、現在の旭区南希望が丘に移転。
【神中神高希望ヶ丘髙 発祥の地】の石碑。
学校の沿革を創立100周年記念時に建立。
この地は港横浜の周囲を見渡せる高台にあり、県営藤棚団地、教育委員会関連の建物等が敷地跡に建っています。
平屋のプレファブが、桜陰会の事務所です。
私は中学校までは猛勉強していましたが、高校へ行き、まわりの人間の頭のつくりに驚き、学校でいうところの勉強をやめたので、『バカ三羽ガラス』の一人でしたが、先輩方が作られてきた校風の中で、今の私の考え方を養うことができ、とても感謝しております。
我等の最初の挨拶、『私はJ88・K44です』
「私はK4だから、40年後輩だ。K44ならこの人間は知っているか?」
・・・・
『先輩、すいません。勉学に励まなくて』(かなり偏差値という絶対的数値が落ちたという事実)
こうして、愉しく会話がはずむのでした。
しかし、JもKも、変な馴れ合いがまるで無く、それぞれが自由な人生を送ろうとしていることを、当たり前のように受け容れている点に、偉大さを感じます。
今後とも、ご指導のほど宜しくお願い致します。
また、後輩達が自律自制を忘れることなく、それぞれの世界で、飛躍して下さることを切に願います。
標準服のツメエリと腕には蛇腹。私の時までは、古い文字のボタンが、まるで目立たなくて、逆にシブくて嬉しかった。私服が無い時は標準服。(今、あまり見かけないな)
娘がY高別科へ進み、分かったのは、神奈川県で高校としては、Y高(横浜商業高校)の方が歴史が古いという事実。
J(神中・旧制神奈川中学校)、その直系のK(希望ヶ丘高校)は、普通科としては、一番古い歴史を有するという事を。
※希望ヶ丘高校卒の先生が、とても多い時期に過ごしましたが、その中の一人。化学の先生は、いつも言っていました。【希望】という漢字は、『望みが薄い』と。【希】は、【希塩酸・塩酸を薄めたもの】の【希】の漢字を使うから、‟あなた方の将来は、望みが薄いですよ”と。
はじめて聞いた時は、ダメな先生だなと思いましたが、漢字上はその通りなので、変な説得力があり、今でも笑ってしまいます。
また、ウッシーは、世界史の先生でしたが、口を開けば、『ロベスピエールがね・・』と、歴史上、非常に大きな転換期であるフランス革命の話ばかり(他の時代には、ほとんど時間を割かない)。さらに、ウッシーの早稲田での同級生は、地元の佐賀県に戻って、実家の八百屋を継いだんですよ! と、東京ではなく在野して地元を盛り上げる道を選んだという言葉に、かなり触発を受け、歴史学科へ進み、先ずは我が地元、旭区周辺を盛り上げようと、今でも続く志を、抱かせて下さった大切な恩師です。
また、【革命】も時代によっては大事ながら、世界史と同時に、日本史を勉強するにつれ、日本が世界に誇る【天皇制】故に、幕末期、【革命】ではなく、【維新】で済み、流れる血が少なかった事実を、日本人として、とても誇りに思っています(多少の犠牲はありながらも)。そして、タイムリーに大河ドラマで【西郷どん】。彼と、坂本竜馬、勝海舟らの、戦いの終息を実行した彼らを尊敬する次第です。そうした繰り返される歴史から【真実】を、汲み取ろうという姿勢を教えて下さった学校でした(先生方は、自由勝手に教えていましたが、教科書通りではなく、真実へのヒントを)。