カレンダーを片手に、年末の挨拶まわりを行っており(1,000本中、残り200本)、皆様から様々な声をお聞かせいただいております。
上川井にある古社、川井山 高野山真言宗の長源寺。
我が家の小川名家からも、中興の祖として、實圓(じつえん)さんを輩出しております。
ここの長源寺は古は、もっと川井寄りにあり、おそらく小川名家も長源寺にお世話になっていたのでしょうが、今現在、我々の墓は、時代が下った創建の福泉寺(曹洞宗)。
我が家は、どちらのお寺とも仲良くさせてもらっています。たまたま、親子で、駒澤大学(元曹洞宗大学)に通っていたため、住職さんとは、先輩・後輩の仲。
川井宿町と、下川井町にまたがる【どうめん】と呼ばれる地区にあった、十一面観音様が、流されそうになったので、ここに安置されたそうですが、長源寺での立場が微妙で、お客様の神様といった感じで、住職も悩まれています。ここの十一面観音像は、同じ横浜で高名な弘明寺の十一面観音像(行基さんが彫ったと伝えられる)と、兄弟の間柄と言われています。
弘明寺はどう思うかは知りませんが、たまたま現在はあちらの地域の方が交通の便が良く、繁栄しており、兄弟関係とは考えないかもしれませんが、鎌倉時代以前は、こちらの地域の方が、交通の要衝であったことを忘れてはならない。(弘明寺の入口右手のマリア観音様・私が勝手に言っている)も、内部の仏像群も素晴らしく、大好きなお寺ですが)
これが、帷子川上流地域の景色。重要幹線国道16号線(旧八王子往還)も通っていますが、何となく懐かしさを秘めた住みやすい土地です。
こちらは、私にとっての産土神様の川井八幡神社。
一名(別名)を【矢場神社】と呼び、八幡太郎義家公が、後三年の役に向かう途中で、ここで弓矢の調練をし、勝利を祈願した神社と伝わります。
おそらく、鎌倉を出立した義家陣が、ここでこの周辺地域の武士団(都筑党他)に、演習を披露し、加勢する兵を集めていたのだと考えます。
白根の白根不動(白根神社)でも、前九年の役・後三年の役の際に立ち寄られた経緯があります。
川井地区も、白根地区も、鎌倉から【鎌倉街道・中の道】北へ進軍して、ちょうど1泊目の地域にあたり、現東戸塚と現大池の山を越えて、武蔵国の最初の、宿営に適したある程度の広地だった地政学上の拠点だったためと、考えます。
七五三の時期であり、菊が花咲く時期。
多くの菊花が奉納されていました。
今回は、【菊】ですが、【根上がりの盆栽軍団】が存在し、菊でも根上がりをされていました。
奉納された、お客様の名前もありました。
【753】の形の菊まで。