清酒 旭の重忠

旭区四季美台の青木商店へ、書類を届けに伺ったところ、さすがは、旭区の繁栄を考えている方々だけあって、『旭の重忠・豆腐 青木屋』が、当たり前に置いてありました。

【買い】でしょ。

ちなみに、ご次男様は、左近山で、『重忠の豆腐』を営まれていて、私はそこの油揚げが大好物。

すぐに飲みたい気持ちを抑えて、まずは写真から。

この向きで撮影したのは、【清酒 秩父錦】と書かれているから。

畠山重忠公は、桓武平氏(坂東八平氏)の中でも力のあった秩父党ですから(秩父出身・少し下った荒川に包み込まれるような天然の要害、現埼玉県川本町に菅谷の館に居を構えていた)ので、秩父仕込みの日本酒で正解です。(残念ながら、旭区に酒造は無い)

少し、右側にすると、
【家を忘れ 親を忘れるは 武将の本意なり】と、旭区で謀殺される前に、重忠公が武士としての誇りとして語ったとされる言葉。
そして、居合わせたたかだだか134騎で、万騎とも言われた(それは誇張でしょうが)大軍と、最後まで戦い抜かれた武士の鏡となる存在。
重忠公は、最後まで凄い生き様なれど、北條(ほうてう)は、悪にしか思えない。
源氏三代も葬ったし、その分、新田義貞によって、子孫北條高時が誅されている。分倍河原の戦いが有名ですが、その後、鎌倉までのあちらこちらが戦場となり、破竹の勢いに押されて、最後は鎌倉も、四方八方から攻められ、天然の要害といえども、最後まで死を信じたくなかったのか、多くの味方を無駄に亡くしている。腹切り櫓で切腹と言われていますが、往生際が悪く、味方の誰かが仕方なく高時を刺したのではと、考えてしまうほど。世代を超えた因果応報。

なぜ、旭区でか?
・鎌倉街道 中の道の途中だったから(1日弱で鎌倉)
・従兄弟の榛谷重朝(彼もこの時、鎌倉の館で暗殺された)の領地で、一休みと情報収集できる土地だったから
・起伏がありつつも、周囲を山で囲まれ、大軍で攻める際には、囲った上で、坂の下の敵は袋のネズミ状態で、最小限の損害で責めやすかったから(もっと人数が居て、ここを拠点に周囲を固められれば、逆に強い地形ではあるが)
・司令部鎌倉から、近すぎず遠すぎず
・北條軍側に、畠山重忠公を慕っている人間が数多く存在。しかも、彼の同族も多く存在した。その彼らが万が一、離反して、弓を北條側に向けた際に、鎌倉へ逃げ込むには、平坦の道を走り抜ければよかったから
などが、考えられる(小川名持論)

製造元は、株式会社八尾本店

秩父には、何度か伺っていますが、そのたびにここの秩父錦は、買うのが必須。

ラベルでは、辛口と甘口の中間で、濃醇と記されています。

実際は、辛口っぽく、とても味が濃くシッカリとした【日本酒】という感じです。

富士山が噴火している時期が案外多く、当時の東海道、矢倉沢往還の足柄峠が、通行できなかった時期が多かった。

史料・史蹟等をうかがうに、古代において、この旭区は、どうも歴史的最発展途上地域のよう。
はるか信州経由で遠回りの中山道からの文明と、相模を通った東海道からの文明の、最後の到着地点だったようです。つまり、大和朝廷の覇権が及ぶまで少し周辺よりも時間が掛かったように考えます。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)でさえも、本来この地は、三浦半島方面へ抜ける道があり、この地を通る可能性が高いのに、避けるかのように、大和市の草柳(焼津同様に草薙剣伝説あり)から、南下している(鎌倉へ寄っていますが)。そして、パワースポットで有名な走水神社~上総へ。

原住民は、この地(周辺も含む)にしがみついて、必死に、この地の覇権・歴史を守り抜いたと推察。
何故なら、現都筑区・青葉区・緑区・旭区にまたがっていた都筑郡で、式内社(927年にまとめられた延喜式神名帳)は驚くことに杉山神社のみ。しかも、武蔵六宮と、かなり低い地位(おそらく教順した順番)。面積当たりの式内社の数が圧倒的に少なすぎる。京都から疎んじられていた(嫌われていたかのように)ように見える。京都朝廷から見ると、面倒な輩が住む東蝦夷の土地だったのでは。1051年からの前九年の役にて、源頼義・義家親子が、白根神社に寄り、後三年の役で義家公が川井の八幡神社にて、弓矢の練習と言いながら、長期間宿営し、周囲を味方にしていった過程でもあるように考えます。蝦夷征伐(失礼な名称)と同時に、東国(関東)で、まだ完全なる恭順の意を示さない地を、纏め上げる使命も受けていたのでは。

さらに、面白いことに、この旭区には、杉山社跡はありながらも、杉山神社が一社も存在していない。そして、数の多いことで有名な八幡神社も、義家公が勝ちを祈願した川井八幡神社(かつては八幡宮)のみしかない。
御厨という地名からも、伊勢神宮内宮に荘園を捧げ、伊勢神宮内宮に奉納している歴史はありながらも、伊勢神宮への荷物集積地であり、出発地であったとされる川井神明社(近頃、上川井神明社に)の主祭神は、驚くべきことに、国之常立尊(クニノトコタチノミコト)。伊勢神道(度会会・わたらいかい)では、伊勢神宮外宮の豊受大神と国常立尊が、同一神としていることは有名。同一でなくても、化身と見られている例も多い。

そう見ていくと、この地(旭区)は古い治世者を最後まで、信じていたのではないだろうか。
それは、スサノオであり、ニギハヤヒだったのでは。
天照大神(アマテラスオオミカミ)は、ニギハヤヒの後に国譲りを受け(日本的な平和的禅譲)、日本の頂点にたったのでは・・・。
ニギハヤヒは、天照國照彦天火明櫛甕玉饒速日尊とも呼び、音では、アマテル クニテルヒコ アマノホアカリ クシミカタマ ニギハヤヒ ノ ミコト。
最後に【尊】は、【大神】よりも格下の意味。【命】は【尊】の格下。
私は、【音】が大事だと考えますが、似すぎですよね。真似したかのように。その権威をそのまま受け継ぎやすいように。ある意味、日本の古代史はこのパターンが多く、やり方が上手です。
そして、そのような格は、時代の為政者によって、書き換えられるのが歴史。そして、徐々に歴史上から消していこうとする。

脱線しすぎましたが、この辺りは、政治・文明の衝突地点だったと考えます。
そして、歴史は繰り返すで、畠山重忠公も。
【翔んで埼玉】で、ようやく埼玉県にも日が差しましたが、我々横浜北部、中央部、海岸部は、同じ武蔵の国民。後から定住した方々には興味が無いのも解りますが、埼玉県~東京都・神奈川県北東部は、元々同じ國。
かつての埼玉県地区は、もっと、輝いていたんです。夢と希望と、血と汗と水で。
小さい頃は、ダ埼玉と、馬鹿にしていましたが、調べていくにつれ、武蔵七党の基盤は、荒川・利根川を制御できない時期には、谷戸から始まって、汗水垂らして、ご先祖様方が開墾した土地。そして、その土地を守るために、いざこざも常々。そして京都朝廷から遠かったことも幸いして、独自に繁栄を築いていった(相模国も、武蔵からの分国)。しかも、プチ氷河期が過ぎて、稲作も活気づき、荒川・多摩川・鶴見川の氾濫から、多くの賜物をいただき肥えた土地、つまり財と、武力を元に、江戸幕府にも通じる鎌倉武士政権を築いた礎を作った人々だと考えます。(武蔵も北側と南側に別れて戦い、南側が強かったので、北側が朝廷に泣きつき、そのせいで、朝廷にさらに乗っかられた悲しい歴史あり。まあ、日本は常に西側から変わっていくようになっているので、受け容れていく事実)
 
その点、日本は、かつての為政者をすぐに歴史上から抹殺することはしなかった。
何故なら、怖いから。
その前者の魂。怨念。そして、それを奉じた人々の気持ち。つまりは、奉じた人々の信認を得るためには、滅ぼしてはいけない為政者(神様)。

怨念(おんねん)と書くと解りやすい。菅原道真公の怨霊が、京都・紫宸殿まで及んだと信じられた。だから、彼等は、彼等が葬った菅原道真公を天の神、天神様にまで昇格させねば、怨霊によって自分達が滅ぼされると、真剣に考えていた。
中臣鎌足・藤原不比等(藤原政に改名)親子が確固とし、権勢を長く欲しいままにし、今も名族である藤原五摂関家でもなれなかった【天神】という称号を、滅ぼした側に与え続けている。

長くなりましたが、この地に最後まで残った為政者を信奉する人々は、偉かった。
神明社としながらも、主祭神は変えなかった。もしかすると、弾圧されていたかも知れないのに。

いくら、焚書坑儒をしても、変えられないものが、日本にはあります。
それは、【口伝】。
当時の政権の在り方とは無関係に、秘密裏に口伝で、代々伝承されていく。
そして判官びいきゆえに、より一層。

一方で、【一寸法師】、【かぐや姫】、【桃太郎】という日本人なら誰しも知っている日本昔話から、何を感じますか?Who?
すべて、一つに繋がります。
恐ろしいほどに。