瀬谷の長屋門公園を訪ねて

本日夕方に、休暇の長男の運転でマニュアルの軽トラで動きながら、瀬谷の長屋門公園を訪ねました。

いつ見ても、横浜市瀬谷の長屋門は、鶴見の横溝屋敷と並んで、威厳がありますね。
(横浜と言えば、明治以降の‟港街”のイメージがありますが、少し内陸の地域は、あまり裕福でなく、このような建物でも、我々からすると誇らしい歴史的建造物です)

逃げるように早歩きしているのは、私(父)です。こうしてみると、ネアンデルタール人や北京原人を真っ先に思いつきます。
本人は、少しは格好いいと思っている点が、悲しいです。(写真は、客観的ですね)

相鉄の三ツ境駅から南へ、少し歩いたところにありますが、横浜にしては広い歴史的公園です。

この長屋門は、防火上のことを重視して、頑強な漆喰づくりの倉庫がありました。

内部では、絵画の個展が開かれていました。

瀬谷区地域振興課は、こうした歴史的遺産と、今の方のアートを融合させた展開をスマートに行っていますね。

横浜市も13区もあると、それぞれに特色が表れてきます。

瀬谷区旭区に隣接しますが、旧くは相模の國で、戸塚の一部として鎌倉郡でした。
現在の二ツ橋付近が、この地のへそで、中原街道(古東海道・東海道裏街道)と、南北を縦断する瀬谷柏尾道路(鎌倉街道上の道の早道)、さらには、大和市・綾瀬市にある厚木基地(旧海軍基地)が横断し、交錯する重要な土地。さらに古くは大和市との境界をなす、【境川】を船交易により、海と繋がり発展した地域です。肥沃な土地ゆえに豪農も多く、いまだに蔵がたくさん現存しています。

私がおねだりして、駒大写真部部長あった長男に、かなり型の古いデジカメで、『このアングルで撮ってくれないかな』と、おねだり。

藁葺き屋根の軒の美しさに、見惚れました。

耐火煉瓦でつくった釜もありました。

さすがに、山陰地区にあるような本格的な登り窯ではありませんが。
(これは、あとで区民有志の方々が作ったものなのかな・・・)

かつては、こんな立派なたい肥場は、この辺りでは見かけませんでしたが、皆の力で作った甲斐あってか、農作物にとって、極めて美味しそうなたい肥が出来ていました。

旧大岡家の長屋門をくぐっての、この母屋は、かつては泉区にあった旧安西家の母屋を移築したものだそうです。

かつてあった、母屋を彷彿とさせる似たような建築物が、南隣の泉区に残っていたのでしょう。

製縄機が何気なしに展示されていました。

当時としては、相当高価なものだったに違いない。

かつて親父に、藁から縄を編むことを、何度も教えてもらいましたが、父も可哀想に、代々当たり前に行われてきた作業が、途絶えてしまいました。
どうしても、右利きの方が編むようには、左利きの私には出来ずに、すぐにほどけてしまい、悔し涙を流していました。この機械がうちにあったらな・・・

私が知っている限りでも、瀬谷区は、大木がまだまだ残っていたので、この臼も自木の1本ものからでしょう。

本家が建て替える前にも、当時のコンロ、土釜はありましたが、随分と立派ですね。

【不動明王】様が大好きな長男の目に入った火伏せの役割を演じたと思われる【麻生不動院】の棟札。

今の川崎市麻生区とは、鎌倉街道上の道を通じた、文化のやりとりが、伝統的に続いていたのだろうか。

国道16号線沿い(旧八王子往還)の我々、旭区帷子川沿いの人間が、長津田・町田市との血脈の行き交いのみならず、何かそれなりの買い物といえば、横浜中心地ではなく、町田(原町田)によく行っていたことを思い起こします。

この竃の天井高は、どれだけあるのだろう。

そして、柱・梁の素晴らしいこと。

かつて、神棚だったであろう場所も、著しく高い箇所に。神様も高あみから、皆を守ってくださり、人々も神々を上に見て拝んでいたのでしょう。

この何気ない柱、測ってみると、250㎜以上の幅。

3.5寸とか、4寸角とかではなく、8寸2分以上の寸法。

4寸角の2倍以上、断面表面積で4倍以上もあるんです。おそらく泉区の地木(じぼく)でしょう。かつては、このような立派な大木が横浜にも、たくさんあったのでしょうね。
(何百年もかけて育った樹木が、残っていたこと自体が素晴らしいですね)

この無垢の床板も測ってしましいました。

1尺のまものです。(303㎜)
厚さは20㎜ですが、おそらくケヤキと思われます。
現在、フローリング製作技術は日進月歩ながら、無垢の木から、しかも反ったり、ねじれたりしないように、何年も寝かせておいてから、製材したのでしょうから、昔の自然・それを大事にしながら一緒に暮らしてきた方々に、頭が下がります。

ここは、今でいうリビング(居間)と、寒い夜には寝室にもなっただろう大広間。

展示の関係上、電灯もありますが、かつてはろうそく・燭台、或いはその類も無かったかも知れない。

そういう意味では、価値ある展示品も大事ですが、この明かり口は、極めて重要な役割だったでしょう。通風も良いし。
(冬は寒いけどね)

下屋根にあたる箇所では、屋根材がむき出し。

しかし、囲炉裏の煙で、自然に燻され、良い具合の飴色になっています。

ふと思いましたが、日本は、土を敬い、そこから育ったもので、住居(建物)を作ってきた歴史が長いですが、どちらも茶系に満ち溢れていますね。
しかし、どの茶色も同一ではなく、素材により様々な表情を見せてくれる。

大丈夫、外を見やれば、目に青葉、百花繚乱で、冬は白いおしろい、月と彼が照らす色合い、鳥が来れば、その色がより輝きを増し。風すらも色が見えるかのよう。

一筋(雨戸のレール)も幅・高さ共にあり、それを柱に止める釘も、鍛冶屋さんが、必死に叩いて、純度を増した頑丈な鉄釘。錆び汁が無い。

雨戸の造りも質実剛健に。

雨戸を入れる戸袋が無くても、雨戸自体が見事にデザインとして調和している。

こうしたところにも、木くさび。

この工法、数値を出しにくいだけで、かなり強いんですよね。

かつて、金融公庫の担当者が、木くさびでは、頑丈でないから融資は認めないとした際に、大工さんが威信をかけて、担当者を呼び出し、推奨金物と、木くさびの強さ比べを目の前で実証し、融資が下りたことがありました。

古いものだからといって、馬鹿にしてはならない。何故なら、建てては地震、建てては地震の繰り返しだった我が国で、その都度改善・改良されて、今に至る実績がものをいいますから。

土壁に、昔ながらの京壁。

それでいながら、東国らしく、小ざっぱりとした佇まい。
華美にしなくても、立派に見えるのは、本質を行っているからだろう。

天井も、簡素ながら、煙に燻されて、年々進化する味わいが(ここが、今時の新築時が最高潮時であとは落ちる一方の建物とは、絶対的に違う点)奥深い。

障子を開ければ、正岡子規のいう小宇宙が目の前に。

こうした囲炉裏は、かつては当たり前だったのだろう。

自然と、家族が身を寄せ合ってくる場所ですね。

それにしても、遊びが一つも無い。東国の裕福な農家らしい造り。
しかし、それゆえに【質素】が醸し出す美しさ、飽きの来ない空間を感じる。

堅牢な松丸太(まつまるた)の梁。

半世紀前までは、大きさこそ違えど、皆この曲がりくねった松丸太の梁だった。

これ自体が天然の木の育ったままを、上手に使っているから、実は頑強。

この時代以前の大工さんは、二つと無い、偶然ともいうべき傑作に、腕を振るっていたように感じさせます。
(今の木造住宅も良いのですが、画一的なものが多く、新築の建物には面白みが少ない。このような材木も、現在では高すぎるし)

柱よりも太い横架材(梁)。

確かに、当時の木造技術で、大空間を作るためには、大きな(背の高い)梁が必要だった。逆に恰好良い。

時間を忘れて、閉館時間を過ぎて、管理の方にご迷惑を掛けてしまいました。

しかし、こちらの気持ちが伝わるのか、時間を過ぎて話をして下さいました。
登り損ねた長屋門2階は、横長に大きな通風孔があります。

そうです。明治期の輸出主力商品だった生糸・絹を作るために、お蚕様をこの上でも育てられていた。

この長屋門の入口手前50mほどのところに、【製糸場跡】の看板。

周囲は住宅街に変わっていますが、建物があっただろう土地は更地になっています。

前々から気になっていた【阿久和・あくわ】という地名。

横浜市瀬谷区HP【瀬谷区の町名その由来】で調べてみると、以下引用・・・新羅の古語で水を意味する「アカ」にちなむともいい、また、「アクワ」は「川の流れの曲がった様」を意味するという。・・・と、他もそればかり。
確かにこれは阿久和の地理上、かなり有力な説だと考えます。福井県福井県南条郡南越前町字阿久和には、杣山城という街道沿いの要害のお城跡。その下を阿久和川が流れていて、かなり急峻な土地。瀬谷区の阿久和地区も、阿久和熊野神社の由緒によれば、以下引用・・・社伝によると、平安時代の安和の頃(968~970年)から当地区の人々は、こんもりと茂ったこの森を”天神地祇の御座所”と敬い木を切ることを禁じて”まつりの場所”としていました・・・とあり、そうした意味からも福井県の阿久和の小型地形版ともとれる。実際に、阿久和地区の東側は、急峻な場所もある。川は比較的真っすぐに整備されていますが、こうした土地の下部を流れる川は、本来洪水のたびに暴れ川となり、曲がりくねりやすい。急峻な場所という意味では、かつての修験道の地だった可能性も。北側の三ツ境の地名も、もとをたどると、どうも旭区東希望が丘の春の木神明社西脇に【密教】という字があり、それが元で、相模鉄道(元神中鉄道)が、その地に近いから、相模国瀬谷と、武蔵国二俣川村と、都岡村の境でもあるという理由で名付けた駅名らしい。それをもとに、三ツ境地区がうまれたのではとも言われている。話は飛びましたが、東希望が丘の字【密教】とも非常に近い、阿久和地区は。

密教となると、さらに頭の中をかっ飛ばして考えてみたくなる。そう、新羅は経由地だったとした場合、仮にそれをヘブライ語圏と想定して、音(オン)で【アクワ】で調べても出てこない。
【ア・クワ(鍬)】で調べると、繋げた形で翻訳してみると、単語としては【やる】 動詞では、【歌う】 ルートは【あさ】 不定詞の定義としては、【すること、ファッション、成し遂げる】
製糸場跡から、様々な憶測ができて面白い。

長屋門の安西屋敷入口。
昔からこの灯りがあったとすると、この当時に、玄関灯は、よほど裕福だったんでしょうね。味わい深いですね。