二俣川駅近くのさちが丘で、厚木街道沿いにありながら、見落としがちなひっそりとした日吉神社(ひえじんじゃ)。
【猫の足あと】によれば、都築郡幡屋郷(つづきぐん
はたのやごう)に属し、古くは榛谷氏(はんがやし)の御厨の鎮守だったらしい。
〈榛谷四郎重朝は、畠山重忠公の従兄弟で、二俣川合戦の際、同時に鎌倉で謀殺されている〉
日吉神社でヒエジンジャとなっているが、恐らくは、元は日枝神社(大山咋神・おおやまくいのかみ)だったものが、豊臣秀吉の小田原城攻めで、後北条から一気に豊臣家の地に変わった際に、日枝から日吉の文字に変わったのであろう(豊臣秀吉の幼名は日吉丸)。
慶応大学日吉校舎のある【日吉】も、同様のいきさつによると思われる。
急な参道のすぐ真下が厚木街道(大和市の厚木基地へと続く)。
母方の亡き爺さんは、変わり者で、貧乏農家を行いながら、寺子屋を開いて近所の子供に教えたり、【畠山重忠公遺烈碑】と、【畠山地蔵尊】を、お坊さんになって、托鉢して集めさせてもらったお金で、建立したり、ここの神主になったり。私の生家の地鎮祭も、爺さんに拠るもの。刀で、邪気を振り払って。
爺さんのお陰で、当家は邪気から遠ざかっています。
そのすぐ近くの刀剣屋さんで、東京国立博物館での国宝東寺展のポスターが貼られていた。
話は戻って、都筑郡幡屋郷は、新編武蔵風土記によれば、そこの民は、農業を主業としていなかったと。考えられるのは、養蚕ではないだろうか。
幡屋(はたのや)という音読みから、現旭区には、秦氏が係わっていたのではないだろうか。秦氏といえば、聖徳太子との係わりが大きく、朝廷との結びつきも大きく、機織り(はたおり)・本拠地京都太秦では、蚕の社(かいこのやしろ)が有名。つまり、養蚕。ユダヤ失われた十二使徒の一派であり、京都平安京に遷都を推し進めた古代名族。その支流がさらに東進して、この未開に近かった土地を古い街道沿いに開拓したのではないだろうか。
このさちが丘よりも北西にあたる旭区上川井の上川井神明社(少し前までは川井神明社)は、川井郷の総鎮守であり、社殿左側に、小さな祠があり、【蚕の社】と呼ぶ。
今から700~800年前の創建ではないかとされ、ここを拠点に伊勢神宮に奉納していたらしい。
現在の旭区 下川井町・都岡町・川井宿町・川井本町・上川井町・矢指町は、古くから三川井(さんかわい)と呼ばれている。
カワイ(川井)と言えば、秦一族の上賀茂神社・下賀茂神社の下賀茂神社内の河合神社(かわいじんじゃ)が、重要な神社で、かの鴨長明もここに住まわれている。
音読みでは、どちらもKAWAI。川井地区といっても、川の井戸など聞いたことがない。恐らく河合(かわい)の当て字だと想定しています。