助けられて、まる3年

小川名建設株式会社を創業したのは、2017年7月20日。
明日で、4年目を迎えます。

ここまで来られたのは、お客様は当然、職人さん方、ご教授いただいた方々、そして、家族(社員・アルバイト)に、助けられてのことです。

たった3年間。されど様々な出会い、別れ、数々の喜怒哀楽がありました。

【時代】は、「風雲急を告げる」の言葉通り、変化の激しい激動期へと入ってきました。
好き嫌いは関係無しに、時間は流れていく。

先々も、皆様に叱咤激励を受けながら活動していく上で、今後の展望を改めて考え直すために、仕事をしながらこここ1ヶ月ほど、【温故知新】の言葉通り、将来を見据えるために、過去を振り返り、反省と、喜んでいただいた事を、かみしめ直しておりました。

「進化論」(100%肯定する訳ではありません)で有名なダーウィンの言葉を私なりに解釈すると、
今後の時代に対応していかれるのは、

生き残っていかれるのは、【強い者】ではなく、【賢い者】でもない。
未来へ向けて、【変化】していかれる者(もの)だけが、将来も存続していかれると。

つまり、こういう時代だからこそ、お客様、職人さん、ブレーン、仲間と一緒に寄り添いながら、一緒に【変化】し続けてさらなる【高み】(精神的な)を目指していきたいと考えております。

当社の創業時に、比較的大きな耐震・外部改修工事をさせていただいた鶴ヶ峰駅前の小川生花店様の仕事をさせていただいたことは、当社の認知度UPと、弾み車となったことは明らかです。

この当社の看板が、非常に目立ちました。

なるべく安く、質の高い工事を提供することが、一番の営業活動ながら、自然に目に付く看板、今では半ば必須のHPは、非常に大切だと、営業出身だった私には、よく分かります。

そして、それらを総合して皆様に喜ばれ、可愛がっていただかないといけない(100%はあり得ませんが)。

最後は、【口コミ】。
悪い噂は、すぐに千里をはしりますが、良い噂は、なかなか広まらない。
思い切った行動は大切ですが、基本は【地道】な活動。
小さなことからコツコツと、小さなことに大きな愛をもって、やっていく姿勢に変わりはない。

派手な打ち上げ花火も良いのですが、長続きしにくい事実を見てきています。
地道な中から生まれてくる【変化】を大切にしていきたいと考えております。

私よりもズッと若いながらに、真面目で優しく、看板などのデザインを中心に天才だと考え尊敬する写真左の人間に、看板・シート看板他をデザイン制作してもらっています。

この一枚の看板が出来上がった時は、本当に嬉しかった。
(こうした日常の小さなことが、とてもありがたい)

当社の2代目ワゴンR。
前の型式のワゴンRちゃんが、創業時に移動、荷物移動と頑張ってくれた功労車。

重い荷物を積んで、横浜の山坂を上り下りしてくれ(他人は酷使と言うかも知れませんが、私は車の性能を出し切ることが、その車に対しての礼儀だと考えます)、何回も修理を重ね、17万キロ以上を走り続け、最後は駆動系、ミッション、足回りとボロボロになり、悲しみの別れ。ありがとね。

2代目には、重い荷物は運ばせないようにして跡を継いでもらっていますよ。

元自家用車だったセレナちゃん。

まだ、トラックが無いときに、長物・重量物を運ぶ際に、大きな力を発揮してくれました。

ショールームや現場へ、お客様をお乗せする車としても現役で活躍中。
(今は、入院中)

このデザインの日産セレナが、一番大好き。かなり長いこと乗っていますが、まだまだ付き合ってもらいます。思い出と一緒にね。

しばらくして、妻(経理・総務部長)が買ってくれた中古の軽トラ。

このSUZUKIキャリーちゃんは、69万円もしました(当時の当社としては、とても大きな買い物)。

今は、長物を積んだ際に、全長・全高ともに、道交法違反車にしないために、後部に鳥居を付けて頑張っています。(でも勿体なくて、まだ13,000㎞しか走らせていません。少々過保護な、1号車です)

塗装屋さんから、もらったも同然で譲り受けたトラック2号車。

型は少し古く、既に延べ18万キロ近く走行していますが、当社2年目当たりから大活躍のキャリーちゃん。ちょこちょこ直してもらいながら、今も更に元気で頑張ってくれています。

前輪タイヤの位置が、現行型よりも前にあり、走っていて安定性が良く、気持ちよく走ってくれます。エンジンからの白煙、オイル漏れ等から、豪華に、WAKO'Sのエンジンオイル・フューエルワン・エンジンパワーシールドで保護し、ノッキング対策と実質的に燃費が良くなる意味で、ハイオクガソリンしか飲ませていません。当社の孝行者ですから。ずっと一緒に居て欲しい。

この後のキャリーちゃん3号車もいただきもので、常に空荷にしておき、住設機器・資材・リサイクルゴミ・剪定した樹木の運搬等、違った用途で使用しています。

3台も軽トラックがあるのは、私が車が大好きという点が大きいですが、お客様からの様々なご要望にすぐに応えたいので、一職種の職方さんと違い、様々な工具類・養生類・掃除用具・ちょっとした建築材料等、多くの種類が必要となっています。そのたびに積み卸ししていたら、時間だけでも、30分は掛かってしまう。その間にも、緊急のお客様は私達の駆け付けを待っている。1秒でも勿体ないので、このような状態に。

※次は、建築材料を前日に積み置きしても、雨にも濡れず、防犯性の高さから軽ワンボックス車を探しています。
さらに、人を増やしたいので、これらの車は皆で乗り合いつつ、社長専用車として、農道のポルシェと呼ばれる安く手にできる、スバルサンバーのキャブ仕様を狙っています(妻には内緒)。やはり、キャブレターの吸気音は気持ち良いし、古い型式なら、スピードも出ないので、速度オーバーも先ずあり得ない。(法令遵守が原則。速い車には非常に興味がある一方で、その力を出し切って上げたい私には、楽しい一方で非常に危険な乗り物になりかねない。自分だけでなく、他の方や家族を悲しませたくない)

昨年4月には、長男輝竜の突然死(ぽっくり病)で亡くし、今年、新型コロナがまだ収束していないため、静かに一周忌を迎えました。

我々の知りうる世界では、輝竜は既に過去の人間となったので、親バカながら書かせてもらうと、本当に心優しく、勉強家で、誠実な、良い男でした。

時には我が子供、息子なのに、出来の悪い私に色々教えてくれ(父代わり)、時には心からの親友でした。身体にどこも悪いところが無く、私の元から消えるなど夢にも思わなかっただけに、彼の死は、私の中では大きな出来事でした。

私自身の未来の多くは、間違いなく無くなってしまった。
残った二人の長女、次男、妻が居なかったら、私は生き続けようとは思わなかったでしょう。

どれだけ、深酒しても、限りなく少ない睡眠を続けた時もありましたが、一向に死を迎えない。
まだ生かされています。
もっと、やるべきことをやらなければ、あっちの世には行ってはいけないらしい。

彼の死によって、学んだことは、
【小さなことに大きな愛を】
【利他の心】
【苦しまれている方への思いやり】
他にも数え切れないほどありますが、我が子に生まれてくれたことに感謝し、彼を可愛がってくれた方々に心から感謝しながら今を生きています(何とか・・・)。

つい数年前の写真。

このフレームから、2人も居なくなりました。

日常の小さな幸せに感謝しながら、他の方のためにも生きなければ。
【世のため】に。(人だけでなく、動物や植物、海や山の自然、地球とそれを取り囲む万物に感謝し、彼等が嬉しいことを、ささやかながら、日々実行していきたい)

私の父親、小川名英次は、脳腫瘍から復帰したのち、しばらく頑張っていましたが、誤飲により5年前に突然亡くなりました。

私と違い、口数少なく、悪口を聞いた覚えがなく、それでいて厳しい父親でしたが、重電機の会社を勤め上げました。

幼少時に、父親を戦争で亡くし、貧乏な時代の農家の貴重な男手として、朝から畑を耕し、登校前に、梅の木(西谷)の市場まで、自転車を借りて、野菜を卸し、帰ってきてからも畑仕事をしていたらしい。
相撲、柔道と汗を流し、強靱な肉体を持ち、溶接オリンピックらしいもので上位を獲得していたらしく、常に腕には火傷のあと、SEIKOの時計のガラス部は溶けて居る箇所がありました。川崎工場で、一目で入りきらないほどの大きなタービンを見てからは、密かに父を尊敬し、反抗しながらも、背中を追っていたようです。

私が幼稚園時代に、富山県砺波の水力発電所のタービン設置へ行き、飯場と現場の往復時に、皆を乗せたバスが急峻な崖から転げ落ち、多くの方が亡くなられた。そのバスに乗っていて、全身骨折・打撲のなか、草を頼りに這いずり上がり、車の通らない道路をひたすら人里向かって進み、助けを求め、崖下のバスから数人が助けられたらしい。(そういう武勇伝をしゃべらないので、最後まで詳しい真相は教えてくれなかった)

仕事上、原子力発電所のタービンも作り、たまに出張で、東海原子力発電所、敦賀の「もんじゅ」へも行き、国としての研究の役割を終えた原子力発電所の解体へも参加していた。
亡くなる前に初めて話してくれましたが、放射線量を測るガイザーカウンターは、ガーガーと、鳴っていたようで、炉心棒もよく見ていたよと。どこまで本当か分かりませんが、
私が父を尊敬するのは、皆が嫌がる作業を、何一つ文句を言わずに実行してきたこと。
子供心に覚えていますが、私の母から、『何で、お父さんが行かないといけないの!誰々さんは全然行かないじゃないの』と、しょっちゅう言われていました。
最後に父は、『うるさい!黙ってろ』と。日頃は気丈で仕切る母を、一言で黙らせて、人が嫌がる作業へ向かって行った。

一方で、やはり地元二俣川の農家出身の母は、早くに実母を亡くし、当時の時代としては、"女だてらに”の言葉が似合いますが、非常に活動的でした。性格的に私と似ていて、よくぶつかっていた。
今の時代と違う点は、妻は家庭を切り盛りし、子育てをするため、子供ができてから、外へパートに行ったのほんの一瞬。あとは、家計を助けるために、ピアノ教室として一室を貸し、内職の仕事をして、最盛期は数十人を取り纏めていた。
(私達姉弟も、一つ50銭程度のお小遣いを貰うために、必死に手伝った。姉は父に似て器用で、早くて羨ましかった。年齢は一つ上でしたが、私より腕力、口と強く、喧嘩をすればいつも私が泣いていた。良き姉です)

思い返せば父の介護中に、既に発症していたのでしょうが、ピック病という名の認知症になり、我妻の言うことを聞き、ようやく介護施設に入ってくれた。(病院の先生から、家ではみれない病気ですと言われていた)

ピック病でありながらも、相変わらず、頭は思考を巡らすようで、廻りの入所者への気配りが行き過ぎて、施設の方を手こずらしてるようです。(施設の方々、申し訳ありません)
そんな母ですが、腹を痛め、私を育ててくれた頑張りに感謝します。

可愛そうなのは、彼女にとって初孫(輝竜)が死んだことを知らされていないこと。
(主治医の先生から、きつく止められています。さらに、私や姉と会うと、ピック病ならではの強烈なこだわりにより、心が安らかではなくなってしまうため、あまり会えない)

私は、外向きには、『うちの母親はうるさくて仕方なかったでしょ。ゴメンナサイね』と、言ってはいますが、内心はキツいものがあります。
今時、聞かなくなってきた【不憫】という感情です。
孫の死も知らず、我々もあまり面会に行かず(行けず)。
ピック病、認知症の特効薬が実用化されることを願いつつも、知らぬが仏で、このまま時間が止まって欲しいものです。

私の父方系の爺さん。小川名佐市。
生き残っていた4人の子供と、妻を残して終戦間際に船で戦地へ護送中に、撃沈されて今は南洋の海の底。戦争があったことなど嘘のように綺麗な海を眺めて、心安らかなることを祈ります。

この方が居なければ、今の我々は居ない。
ありがとうございます。

佐市爺さんの妻の小川名ヒデ。
長津田の農家、林家から嫁ぐ。
実兄は、国鉄マンの林房幸氏で、1985年に長津田の歴史を訪ねて 長津田風土記】を著し、綿密な実地調査から、今も横浜市緑区(現緑区・青葉区・都筑区)の歴史的文献として各図書館に蔵書されています。

88歳まで生き、戦中後は女手一つで、子供を育て上げられた。

私にとっては、のび太のおばあちゃんのように優しく、煮しめが美味しく、婆さんのオハギの味は今でも忘れない。姉と奪い合うように貪っていた。

本家へ行くと、丸くなってしまった腰で、常に草むしり、畑の手入れを行なっていた。
働き者でした。

我が次男の目元を見るたびに、ヒデ婆さんを思い出す。

大叔父の小川名光春。
当時の次男の宿命で、良くて分家するか、婿養子に入る程度しか選択肢が無かった時代。

世界史的に見て、戦争せざるを得なかった当時、軍人になるということは、祖国日本のためだった。

たまたま、近衛兵に選ばれ、天皇陛下と宮城(現皇居)を守護し、上川井町の叔母とやりとりしている手紙多数あり。槍の大会で2番手を取られたらしい。

太平洋開戦のきっかけとなった志那(中国)へ早くから行き、参戦している。

終戦間際は、本隊から分派したのか、司令として向かったのか定かではないが、ビルマ(現ミャンマー)戦線まで行き、そこの野戦病院で戦死(病没)。遺骨は無し。

とても優しい目をされていて、とても戦争に参加した方には思えない。
(時代がそうせざるを得なかったのだろう)
目元が、亡き輝竜に似ている。輝竜は生前、光春さん(他の小川名家も含めて)のことを良く調べている。
(気持ち的に、まだ彼の調査した内容を見られない)

輝竜がこうした詳しい調査をする前に、たまたま【能】のチケットを分けていただき、次男も含めて3人で宮内庁楽部庁舎で能楽を堪能しながら、光春さんが若かりし日に闊歩した近衛師団の本拠地周辺も見ていた事も、何かのご縁か。

私も、とある会社勤務の際に、入札・落札時の担当だった縁から、一般の方は滅多に入れない、緑あざやかな皇居内を歩けたことも、ご縁のようです。すべてに感謝です。

さらに、時代を遡ると、上川井の長源寺の中興の祖とされる、【實圓童子・じつえん】の墓があります。

裏を見ると、小川名新右ェ門の文字。

上川井長源寺の歴史は古く、開祖は行基菩薩(東大寺を作り、治水感慨工事を積極的に行い、民への施しをなされた方)とされ、それを知ってか、亡き輝竜は行基菩薩様の歴史発掘に乗り出し、奈良・大阪へ何度も実地調査に行き、行基さんのお墓がある奈良生駒市の竹林寺にも通い、当時草むしりや堂内の掃除をされていた方と親交を結び可愛がってもらっていた。

長々と書きましたが、分かる範囲でも、私の父方系だけでも、家族・地元・国のために必死に働き、真実を会得するためには、労を厭わなかった方々が多いようです。

母方の爺様、佐藤豊吉は、昼間から良く酒を飲んでいて、身体を壊してからも、ビールを沸かして飲む(アルコールを飛ばす意味があったのでしょう、笑)変わり者。
その一方で、調べてみると、尊敬する方で、貧乏な農家時代は必死に働き、横浜の中心部へ大八車に野菜をたくさん積み、山坂が多く今と違う泥道を家族で引っ張って、売りに行き、妻の薬代を捻出していた。
しかし、妻を早くに亡くしてから、自宅で寺子屋を開き、子供に歴史(社会)を中心に教え、
さらに、旭区で今では有名な方として認知されている【畠山重忠】(鎌倉時代の超有力御家人で、勇智仁に優れた武士の鑑とされ、埼玉県菅谷に館を持つ方)が、この旭区の地で北條氏の謀により、潔癖を証明するために随伴してきた家来を含めた134騎だけで、数日間の死闘の末に討たれた(後に身の潔白は晴れるが、一族ほぼ根絶やしされた)。
それを後世に残すために、旭区万騎が原に【畠山重忠公遺烈碑】を1897年に建立しました。
そのために、僧籍を取得し、各家を廻って、托鉢で得た資金で碑の建立にこぎ着けた。
面白いことに、神主も行なっている。我が実家の地鎮祭も爺さんによるもの。
私が大好きでな爺さんで、どうも歴史、神社好きで、傍からは理解されない行動を実践していく点は、私には偉大なこの方の遺伝子を、少なからず受けたようです。

旭区周辺の地域史を調べると、爺さんに先回りされていて、結局後追いしていることに気付かされる。
早世した婆さんは、本村の平本家の本家出身(本当かな?)と、聞かされている。
旭区の西川島町周辺に現存する平本家は、武田信玄の家臣(or一族)で、織田軍が攻めてきた際に、ここまで逃げ延びてきたらしい。

我が妻の柴崎は、もともとこちらの人間ではなく、千葉県野田市辺りの出身らしい。調布市、立川市等至る所に【柴崎】の地があるが、元をたどれば、平安末期に東国で力を付けた桓武平氏系秩父族で、畠山重忠系一族(町田市を中心とした小山田氏・この地周辺を治めた榛谷氏・川崎一体を中心とした稲毛氏)
、川越の河越氏、江戸の江戸氏の分家、柴崎氏で、先述した近衛兵がメインに居た皇居内部北側~浅草方面を領有していた名族。
婿さんに入った爺さんは、宮城県亘理市出身の齋藤氏で、元を辿ると平泉中尊寺で有名な藤原一族の先祖、豪傑藤原経清の血をついでいるのではないかと想像する。

さらに、子供・甥っ子らのために書いておくと(自分のご先祖様を敬うことが、未来に繋がるため)、我が妻の母方は、秋山姓で山梨都留郡出身。
話では、武田二十四将の一人、秋山虎繁系に血筋があり、織田進軍により、秋山虎繁が磔刑(強すぎて、織田軍を手こずらせたため、よほど憎らしかったようです)にされ、主君武田勝頼も滅ぼされ、秋山家を女系でひっそりと、守ってきたと聞いている。山梨県でも郡内と呼ばれる稲作地の少ない山岳・渓谷沿いに。平家の落人みたいなものか。
それが本当ならば(まだ、歴史書物を見つけられないため)、秋山姓自体は、甲斐国巨摩郡秋山の地に、甲斐武田源氏の分家として、根付くことからの秋山姓だが、さらに遡れば、平安末期の武人の英雄、河内源氏流の源家、八幡太郎義家公(源義家)の実弟、新羅三郎義光(後三年の役に朝廷に許しをもらえず、官職を辞してまで陸奥国まで行き参戦して、兄
義家に味方する)が、甲斐源氏の祖。
親戚である秋山の爺様は国鉄マン。私も交流のあったお婆さんは、大月市辺り在住時に、二人の子供を亡くしている。


未来・将来を読む手段としては、今の流行り物の情報を探りまくるという手法がありますが、私は、先述の通りに、【温故知新】方式で、先ずは身近な『故きを温ねて、新しきを知る』ことを大事にしています。

同時に、素早く移り変わる現在は、【世界の中の日本】という流れからは逆らえないので、世界史も人類史も、地球創世に係わる歴史等を大まかに掴み取り、今現在世界で、起きている情報を取捨選択し(すべてを得るのは、情報量が多すぎてまず無理なので)、先々にマッチングするソフトランディング点を見い出す作業を心掛け、末永く続く企業を目指していきます。