都筑区の港北ニュータウン開発に伴い発掘された、大塚遺跡は、弥生時代中期ごろの環濠集落であり、そこのすぐ傍に彼らの墳墓とされる歳勝土遺跡があります。
お盆ということもあり、お墓参りへ。
お墓の遺構跡を、【保護盛土】と、発掘時には存在していなかった【復元盛土】で保存しています。
方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)とは、上から見た際に、四角形(方形)で、その周囲に溝が掘られ(周溝)たことの組み合わせの名称。
左右にお墓があり、それぞれに堀があったあようです。
看板に、その説明が書かれています。
盛土状況の断面図。
隣の居住区(大塚遺跡)の方々の共同墓地だったようです。
この看板の上空写真が、昭和47年から始まった頃のものと思われ、弥生時代の地層が見えています。
この当時から、亡くなられた方々を、篤く葬っていたようです。
復元しきれなかったお墓は、形状が分かるように、石で囲ってあります。
すぐ近くの居住地跡(大塚遺跡)には、竪穴式住居が推測の元に復元されています。
横浜市立歴史博物館のすぐ隣に隣接しています。
皮肉なのは、本来の大塚遺跡の中央部と、西側が大きく喪失しており、掘って作られたと思われる4車線の道路と、その向かいには歴史博物館が・・・。
さらに下がった周囲には、稲作に適している谷戸と、川に挟まれ水には困りません。そして、近頃多い、がけ崩れ、洪水の影響を受けにくく、外敵を見下ろせる高台に、住まわれていたようです。
縄文人・弥生人(この辺りの)は、自然災害を考慮した土地をちゃんと選んでいた点に、改めて尊敬の念を抱きます。