ちょうど5年前のこの日に、息子と伊豆へドライブしながら軽く歴史散歩。
その時撮影した写真を、ゆっくり観て、心の旅をしてみました。
写真が上手く縮小できなかったため、一度紙ベースに焼いてからアップしている為、画像は悪いです。まあ、誰も見ないでしょうが(笑) 多分に自己満足ですのでご容赦下さい。
伊豆 蛭ヶ小島(蛭ヶ島)に建つ、源頼朝と北条政子夫妻。
どこを見ているのか。
やはり、日本一の富士山。
目指すは平家討伐と同時に、日の本一か。
恋愛当時の二人は、とても仲睦まじかったのでしょうね。まあ、そうあって欲しいです。
伊豆中央から、流れを集めて沼津漁港脇から駿河湾へ流れ込む、狩野川中流脇の畑・いちご畑、田んぼの真ん中に存在。
平治の乱で、父 源義朝方が平清盛に負け、当人は入浴中に殺害され、14才だった頼朝はお目こぼしを受け処刑は逃れ(当時としては将来を危険視しても良い年齢)、この地に配流(流刑)されたという。
【鎌倉殿の13人】では、東国御家人と、源頼朝との確執が描かれていますが、
京の都育ちの元下級貴族方と、
東国蝦夷(えみし)的な見方をされていた超田舎者の武士集団(荒くれ者で、少々ほがらかに、明るい夢と自分の地を守るという牧歌的な地侍。田舎者故に桓武平氏の血脈を誇りにし、武力に秀でていたが、長年続いた絶対的権力の下での考え方を飛び越えられなかった時代を生きた武士。戦国時代はもう少し、過激さを増すが、それでも東国では、農民に対して善政を敷いていたという北条早雲の後北条・彼も元京都朝廷直属の武士と云われているは、力づくという感覚が薄い。農民を含めた東国人自体が、実は平和的志向だったのでは。いまだに縄文系の血も西国よりも強いし)方に、目指す方向性の差を明らかにするように。源氏一族内部・兄弟同士も、源頼朝が絶対的権力者として君臨しなければならないという考えを、大泉洋に演じさせて。頼朝という【血】が、武士団をまとめ上げた原動力であったと同時に、
狩野川が流れを変えたが、当時(西暦1160年)は川の水量も多く、狩野川の各所に【島】と付く地名が現在もいくつか残っているようで、川の中の小島(中洲)だったと思われています。
1180年34才で旗揚げ。1178年頃からは、北条時政の館に居たのではないかと、案内板には書かれていました。
【いずっぱこ】と愛される伊豆箱根鉄道 駿豆線。
小田原~南足柄市を通るのは、大雄山線。
主要株主は西武鉄道㈱で前身は、豆相鉄道㈱。本社は静岡県三島市。
様々な変遷はありますが、名は体を表すといいますが、
源平合戦時代、戦国時代、徳川家康時代、現在と、静岡から神奈川に攻め込む(取り込む)という図式が見えるような感があります。地政学上のものかも知れませんが。なんか共通点が多く面白い。
いずっぱこに乗ると、三島駅。
そのすぐ近くに、三嶋大社。
源頼朝の尊崇篤く、鎌倉時代初期には、関東総鎮守という名社。(この時代の感覚では、伊豆北部は、関東地方と考えられているようです。関東の関は、箱根。そこで、東西が分かれる感がありますが、一筋縄ではないようだ。私的には、逆に伊豆は神奈川県なら良いのにとも思う。)
前の写真は、皆が参拝する拝殿。
こちらは、脇から見る本殿。
鰹木と外削ぎ(御祭神が男性神の場合は一般的に外・大山祇命 おおやまつみのみこと と、積羽八重事代主 つみはやえことしろぬし 両神を合わせて。三嶋大明神と呼ぶ)の千木(ちぎ)。
案内板によれば、本殿の大きさは、出雲大社とともに、国内最大級で、高さ23m、鬼瓦の高さは、4mもあるようです。ちなみに出雲大社は『国譲り』の際に、一番高い建物を要望した為、48mあり、当時で一番高い建物。何度か倒れて、現在は24m。一般的なマンションでいうところの8階建て。デカい。木材の可能性を感じさせる。
池の中には弁財天様を祀る。
つつじも今が盛りです。
願成就院跡。
このお寺は、略縁起によれば、1189年初代執権 北條時政が『奥州藤原氏征討を祈願して・・』建立と記されている。
尊敬すべき人物の、坂上田村麻呂、源頼義・義家(八幡太郎義家)らが、【奥州征伐】の将として任命され戦っているが、奥州(現在の東北)が、常に悪者扱いの言い回し(征伐・征討)で、とても東北の方々に失礼だと感じています。黄金の文化、朝廷が遣唐使を止めたあとも、海外へ繰り出し、交易活動を活発に行っている。そして、独自の政治・経済文化圏を形成していた事実がある。しかし、蝦夷(エゾ・エミシ)と悪い意味合いの漢字をあてて、彼等を侮蔑している。関東地方も、かつては大きな意味で蝦夷扱い。早い段階で降ったから、その汚名は薄れていったが、失礼すぎる。奈良時代に九州西岸へ防人として、遠方の東国人が、食料も武器も自分で、免税もされずに、女子供を残して行った様は想像するだけで、泣けてくる。
それぞれに、強い軍馬を産する土地として重宝されてきた。
同じように、兵にしても苛烈な戦いだった日露戦争時の第二師団(主に宮城県、福島県、新潟県)、第八師団(青森県、岩手県、秋田県、山形県)は、合わせて東北師団として、【国宝師団】とも呼ばれるほど、活躍し、屈強な兵士が多かったらしい。
3.11での、忍耐強さは、逆に我々の涙をより一層強めた震災でもあった。
そうした東北地方を、奥州征伐というプロパガンダの言葉で片づけてしまう、かつての中央政治の感覚に対して、強烈な違和感を感じる。
一方で、今の日本がこのように一体化しているのは、過去の方々による統一活動があったからにほかならないが。
その一方で、この境内には、国宝附の五輪塔形木札4枚。
そして、凄いのは仏師 運慶作とされる仏像群(国宝五軀)
見学しだすと、閉館時間までそこから出ない(出られない)癖のある我々は、あえて次の機会にとっておき、行かずじまいとなってしまった。惜しまれる。
見ていないものは、書けないので、願成就院のHPをご覧ください。
天守君山 願成就院 公式ホームページ (ganjoujuin.jp)
パソコン上で見るだけでも、運慶の造り出す像は、本物の生き物以上に躍動感・厳かさ、親近感さえも感じさせてくれる。スゴい。
脇に整然と並べられていた様々な石像の一つをみても、力が宿っている。
北條時政の墓。
常に感心しますが、北条執権政権を倒した新田義貞、そして、足利政権に、政権交代をした後にも、前の為政者の墓を荒らしたり、破壊することは、よほどのことが無い限りない。大陸系の他国ではそれを蹂躙する話を聞きますが、こうした傾向って日本だけなのかな。怨霊(祟り)を恐れる文化だからなのか。近親者や地元の方々が必死に護っているためか。まあ、亡くなられている方のお墓を新たな為政者が、破壊などしたら、日本では、【徳】が無いと死後も語り継がれるでしょうし、その本人に何かあった際に、【バチが当たったんだ】と言われることでしょう。
日本の民衆全体の見守る目が厳しい点と、武士の情け という感覚を、農民も含めて比較的高いレベルで持っていたのだと考えますが。
何れにしても、そうした配慮が無ければ、政権交代後、700年近い歳月を費やしているのに、こうしてお墓を拝めるのはありがたい。
鎌倉幕府を一緒に創った有力御家人たちを、非情としか思えないように、多く弑した北條氏自体があまり好きではないのですが、そして、その最右翼が、私の好きな、小栗旬演じる北条義時が、放映現在までも多くの葛藤で涙し、天下をまとめていくために成長していく様を、そうせざるを得なかっただろう伏線が『鎌倉殿・・・』では、描かれていて、今後の義時を三谷幸喜がどうしていくのかがとても楽しみです。それにより、私の北條氏嫌いを少しは癒やして欲しい。
脱線しますが、かつて、大河ドラマで、歴史的不人気作と云われた、藤本有紀
作の『平清盛』は、清盛を演じる松山ケンイチ、父の忠盛を演じる中井貴一の力量も手伝ってか、私的には、それまでの【平家でなければ人でなし・・・】的な部分ばかりが強調されてきた平清盛は、その感覚を崩してくれた貴重で大好きな大河でした。源頼朝が築いた武家政権への道筋を付けてくれていた忠盛・清盛親子。朝廷内に入り込んだが、それが失脚の元。つまり、同じ轍を踏まないように、京都から離れた土地に武士中心の社会を創出するという考えを教えてくれたのも、平清盛。要は政権創りを体現して見せた大先輩。
歴史の教科書、口伝による伝承、ことわざ、故事成語、お祭り、当たり前に使われている慣用句、歌(唄)、嫌悪の意味を持った言葉 等々、我々は、100の真理を発する間に、1の真逆の言葉を発している可能性があると、近頃感じています。
インターネットが普及したおかげで、様々な角度から、様々な意見が飛び交い、どれが本当の過去なのか、余計に解りにくくなる一方で、金太郎飴のような画一的なものの見方は、真実の目を曇らすと。
そして、過去の歴史の読み解きをしていくなかで、今現在の世の中の真実、未来の予測、良い方向への修正作業を、一人でも多くの人が心がけていけば、不幸な人(生物・もの)を一人でも減らせると信じています。
また、幸・不幸の受け取り方も変わるかも知れない。
空は青く綺麗でしたが、雲の形状が気になった。
地中の磁場(地殻)の変化、太陽からの磁気によって、引き起こされるのかは解りませんが、幼い頃には、見なかった雲が多くなったような気がする。気のせい・・・。
時代を感じさせる石段に吸い込まれるように、登って行った。
ここにあった案内板には、
當社の創建は大化三年(647)
御祭神は大山祇神で延喜式内
石徳髙神社である。・・・・
治承四年(1180)源賴朝此䖏に源家再興を祈り兵を挙げる
現在の本殿は寛永九年(1632)久能城主榊原大内記照久の造営である
と。
本殿。
今、石徳髙神社と検索すると、いくつか候補がありましたが、伊豆の国市寺家の守山八幡宮だと思われます。
頼朝挙兵時には、北條時政の館に居たことになっていますが、その真裏(東側)の高台にあります。
切り通しがあったので、登っていくと、
何だか、凄く良い景色。写真と照らし合わせると、森山山頂展望台と思われます。
(息子は知っていたかもしれませんが、私は感覚で動いており、名前等の記憶力が低いようです。➡これまで、そんないい加減で、よく営業をしてきたね
と言われる時がありますが、反面、その方の顔、雰囲気、声、建物、その土地、景色、工事ヶ所、その方とのエピソード等は良く覚えているんです。ありがたいことに、デカくて目立つため、大抵、あちらから声を掛けて下さり、シナプスが少しづつ繋がりだし、私の記憶の引き出しを開けて下さるので、とても助かっています)
北北西の方角を見ると、富士山。
伊豆のこの辺りは、眼下に緑が多い、穏やかな景色が広がり、奥手にシャープかつ堂々と美しい富士山が至る所からみえて、幸せな気持ちになれます。
少し右にカメラを向けると、尾根の向こう側に箱根の山・内輪山の駒ケ岳らしきが見える。
インクがだいぶかすれてきました(ヘッドの掃除しろよ!輝明)。
写真左手の小高い山(韮山城)の手前に薄緑色の屋根が韮山体育館。
それと、手前の高圧線の鉄塔の間に、先ほど伺った蛭ヶ島公園。
それらの延長線の韮山城跡(伊勢新九郎 盛時 のちの北條早雲が1493年、堀越公方を攻めここに根城として作ったため、頼朝の地代には存在していなかった)の裏手にある、
山木判官 平兼隆の館を攻め、首級を上げ、ここに源頼朝挙兵の報が走った。
その際、頼朝本人はここで見ていたようですが、案内板によれば、山木を打ち取った合図の狼煙が、なかなか上がらなかったため、本人みずから現地へ向かいだしたと。
こうして、怜悧にも思える時がある、ただし、貴族が独占していた政治に終止符を打ち、ながらく続く新たな武家社会を作り固め、後世の偉人達に大きな影響を与え続けた点において、政治家として極めて優秀な方だったと思います。
運が良いのは、
・飢饉が頻発し、農民・武士共に疲弊し、京都(平家)政権への不満が溜まっていた。
・頼りにした東国武士(伊豆・相模・武蔵・上総・下総・安房等での)武士団の成長が熟しかけていた。
・軍略・戦略的に、日本史上に残る天才、源義経が弟であった点。
・神輿を担いだのか、担がせたのかは不明だが、機を読む能力の高い、北條家の全面的な協力があった点。
写真はあるのですが、これ以上は私が疲れたので、この辺りで。