大谷翔平が参拝したとされる、鶴ヶ峯稲荷神社よりも、標高の高いところにある、【鶴ヶ峰神社】の傍らからの富士山。
小高い鶴ヶ峰の山の頂上にある、鶴ヶ峯神社。
鶴ヶ峰本町2-30・鶴ヶ峰という地名は、元々あったが、行政的には1969年10月1日に保土ヶ谷区から、旭区が分区したあと、1970年11月10日に、今宿町と白根町の一部から分かれて、鶴ヶ峰本町誕生。
以前の大字は、【鶴ヶ峯】。よって、神社名は鶴ヶ峯神社。
朱色の鳥居の先に、石づくりの鳥居。
手作り感満載の、鶴ヶ峯神社、何か好きです。
我が家の次男、輝心は、友達と共に、ここで初詣をしたそうです。
私は、友達とその下の、大谷翔平ゆかりの鶴ヶ峯稲荷神社で初詣。
お客様でもある、土地の人、葛籠貫史郎さんが、私財を投げ出して、根気よくこの神社を守っていた姿を思い出すからです。
創建時期は未明ですが、神仏に熱心で、川井八幡神社・白根神社(白根不動)を送検したとされる八幡太郎義家(源義家)、源頼朝が、この地に創建した可能性があります。
ご祭神は、分かりません。(応神天皇か)
畠山一族が謀殺されたあとの、畠山家(桓武平氏系)は、足利系(清和源氏系)へ引き継がれ、畠山重忠の血筋は、宗家として残されていないことになっていますが、
この地に残る口伝では、
鶴ヶ峰本町に多い、
葛籠貫(つづらぬき)姓、
久保田姓、
西川島町に多い、
綿貫姓(私の父母系、両方で近しい親族)は、畠山重忠の家臣だったと、まことしやかに云われています。
参道を下りていく右側に、富士山と大山。
送電線の鉄塔がなければな・・・。
畠山重忠も、134騎だけで、北条義時軍の1万騎(誇張があると思われますが)と、数日間にわたり、戦い続けています。
集められた相模・武蔵の精鋭部隊も、『明日は我が身』、『壇ノ浦まで苦楽を共にし、罪も無く、関東を代表する重忠を弑すのには、相当、気がひける』感覚だったのだと思います。
最後は、相模(厚木市)の愛甲三郎季隆(あいこう すえたか)の矢が致命傷となり、落命。
【鎌倉殿の13人】では、北条義時を主人公とし、後の鎌倉時代の執権政治を盤石にした功と、同時に北條家としての役割、戦争を少なくするための手段としての力ある者の、勢力の削ぎ落しとに、非情なまでに、強きものをくじき、同時に私を滅し、武家社会を安定化させるための苦悩を中心に描かれていますが、佐藤浩市が演じる、上総の介広常、佐藤二朗演じる、比企能員(よしかず)、そして、中川大志演じる、畠山重忠らの、中心人物が非情な状態で抹殺されている。
俳優の中川大志さんは、上手に演じていましたが、抹殺される側、特に畠山重忠像が、かなり低めに設定されているように感じたのは、私だけでは無いはずです。
小栗旬演じる、北条義時の汚れ役としての苦悩と決断に、焦点が当てられているため、仕方ない点ではありますが、畠山重忠は、実状の力(経済力・軍事力・影響力)を、義時が主役のために、かなり削がれて描かれていたと感じます。
同時に、吾妻鏡における畠山重忠像も、少々誇大に描かれているように思います。
のちに、北條が、重忠の謀反は、間違いだったと公表していますが既に一族は滅んでいるという事実。彼がまわりの武士たちから尊敬されていたのは事実のため、いくら、北條家に抵抗できる力を持った勢力を削ぎ、政権は盤石なものとなったとはいえ、彼を持ち上げておかないと、勝者の解釈手法で、重忠を事実以上に武士の鏡として、実態以上に持ち上げた経緯があると睨んでいます。マッチポンプのような北条義時は、北條家のため(少しは平和のため
もあったか)にしても、歴史的にそしりを受けるのを相当な覚悟を持って、対峙した人のように感じます。ただし、当時は源氏といえども、頼朝一族よりは、少し家格が下がり、まだ大きな力を持っていなかった、少々遠方の新田家が時を経て力を蓄え、北條政権を討幕し、足利家に新たな幕府を作られているのも、歴史の妙です。
鶴ヶ峯神社のすぐ近く(道を挟んだ場所)の、駕籠塚(かごづか)がりあり、畠山重忠の内室・菊の前の墓所土饅頭。
時代が違うので、今の観点で見てはいけませんが、彼の正室は、北條時政の娘(6女)であり、後にも足利氏に嫁ぎ、血筋を繋いでいます。菊の前は、正室ではないながら、心から愛し合った二人なのではないでしょうか。
夫、重忠の憤死を知り、鎌倉街道中の道を埼玉から駆け付けるなり、その討ち死にした場所を見渡せるこの地で、殉死するかのように、自害している。今の時代には合わないかも知れませんが美談ですね。
ちなみに、ここは元々、工業用水道の鶴ヶ峰配水池に堂々と祀られていたようですが、そこを追われ、鎌倉街道中の道(幾筋もあったようです)の傍らに、所狭しと移設されたようです。
いつの間にか、椿が生い茂り、今を盛りに、奥様の菊の前の気持ちを感じてか、椿の花が咲いていました。
この地は、横浜市地域史跡として認定され、横浜市旭区観光課の管理となっています。
旭区からは、歴史上の人物といえる人が輩出されていませんが、平安時代後期の武家のヒーロー、京の都の八幡太郎義家が、この地に足跡を多く残し、平安末期~鎌倉草創期には、畠山重忠が一族で武蔵国の広範な地域の実質的な棟梁【武蔵総検校職】として、また、鎌倉時代の黎明期を源頼朝・源義経に従って、武将の鏡と言われるほど、勇・智・仁に、極めて秀でた人物で、京都に行っても貴族に恥ずかしくない見識と、楽器使いとして、吾妻鏡に記されています。同時に、重忠は、埼玉の川本町(現深谷市)・菅谷の館(荒川に囲われ、絶壁の鎌倉初期のお城)を拠点に、勢力を誇り、北條家にとっては目の上のたんこぶだったためか、鶴ヶ峰の地で、北條義時(父の北條時政も関与か)により謀殺された悲運の武将です。
大河ドラマで、畠山重忠がたびたび登場しましたが、実像は、もっと大きな存在だったことは間違いありません。町田市一帯を治めていた小山田有重は彼の伯父であり、広大な牧の別当。その息子で、重忠の従兄弟の稲毛重成は、川崎一帯を治めており(後の千葉の稲毛区とも関連あり)、保土ヶ谷区(旭区を含む)一体と、恐らくは、西区・緑区の一部を所有していた榛谷(四郎)重朝は、小山田有重の四男で、やはり、重忠の従兄弟。
この地(旧保土ヶ谷区)一帯を治めていた、榛谷重朝は、弓馬の名手で、源頼朝に可愛がられていた様子が、【吾妻鑑・あずまかがみ・鎌倉時代の教科書】からも見て取れる。旧保土ヶ谷区一帯(旭区含む)は、【榛谷御厨】と呼ばれています。伊勢神宮(一説には、内宮ではなく外宮)に、土地を寄進し、この地を狙う他部族から、お墨付きをもらっていたようです。
現上川井神明社(旧称:川井神明社・上川井町宮ノ下交差点前)に、地域の貢ぎ物が集まられ、そこから伊勢に出発していたそうです。川井神明社の左側には、【蚕の社】が、本殿とは別に残っています。新編武蔵風土記にも、旭区地域には、畑作の民だけではなく、当時として先進的な、養蚕織物を行っている方々が居ると記されている。
旭区さちが丘に居館を構えていたとされる榛谷重朝(はんがや しげとも)は、畠山重忠謀殺時に、鎌倉のに居たが、嫌疑をかけられて、息子二人と共に、三浦義村に討たれて、榛谷家は滅亡する。(あっけない)
桓武平氏で秩父荘に出自を持ち、鎌倉間近の武蔵国南部にまで勢力を伸ばしていた畠山一族は、稲毛重成も含めて(相模川・馬入川を渡る橋を作ったが、この開通式の帰りに源頼朝が落馬による遠因で死亡した咎を受けた・馬を故意に驚かせれば、落馬せざるを得なかっただろうことは、北條の世になったので、真相は語られない)、この重忠謀殺により、一族は,全滅。
武蔵国南部の我々の唯一の救いは、小山田一族が、山梨県の都留方面へ落ち延び、山梨東部の郡内地区の覇権を握り、戦国時代に、武田信玄と上手に距離を保ちながらも、二十四将の一人として、活躍し歴史に足跡を残した点です。
その名残りか、我が家も含めて、この地域の古い土地の方は、甲州へとつづく、町田方面との血縁関係があります。